と思いながら、やっぱりやってしまうわけです。岡崎京子論。
なぜやめとこう、と思うのか。ドツボにはまるからです。
なぜやめとこう、と思いながらも書くのか。肯んじえないことが語られるからです。
yuki1976_2さんの弁償するとき目が光るというブログのトラバというかたちで書きます。
と、その前に、そのブログにてコメントを残されているFEさんなんですが、おっしゃりたいことは非常にわかります。岡崎を批判しながら、岡崎の漫画の中でなされていることをきれいになぞっておるように感じます、この文章。
最後の文章はこずえの発言ですしね。
この文章は、とりあえず、岡崎=お洒落という文脈で読みぬかれているようですが、岡崎ってそんなにお洒落でしょうか?むしろそういうのを思いっきり批判したがために、あんなんなのだと思うのですが。サブカル信仰云々。
引用しているこずえの文章を見たら、思いっきりそれがわかるように思うのですが。
もう少し具体的にお洒落とか流行とかにてらすと、彼女はサルトルとか引用してますよね。でも当時サルトルとかどうしようもなくダサいものだったんですよ。
>格好悪いものを格好良く描くことに意味なんてない。
の部分はもっともですが、岡崎は、そういったものを「格好よく」描いたためしがないと思います。どの辺りのことなのかわかりませんが。
あと、
>死や暴力やエロはどうしようもなくダサイものだろ?
という文章。ここが一番ひっかかったのですが、岡崎の描くエロってどうしようもなくダサいもののように思います。わかりやすくリバーズエッジに照らすと、主人公のハルナのセックス観はあまりにも「格好いい」ものからかけ離れている。死だって、「格好いい」ものじゃなく、ただそこにあるものでしかない。河原でグズグズに腐って、そして骨になって、犬にくわえられるわけである。暴力だって、「くだらねぇホモ漫画かいてんじゃねぇよ」という、どうしようもなくダサい言葉を触媒にする。どこが格好いいのか。
オレ個人としては、死がダサいという表現はあまり好きではなくて、死がそういった扱いを受けるのは近代の不幸だと思っているけど、岡崎は少なくとも、死を格好いいものとは描いていない。
>岡崎京子の作品にあるのは、何も生み出さない「無」という不幸だけだ。
これは、岡崎京子に通底する、「意味がない」ということなのでしょうか?
それを無と表現しているのであれば、否定しなければならない。
岡崎は、「世界には意味がない」という意味を、世界に与えた、というべきだと思う。そしてそれは何も生み出さないばかりか、いまや(というかあの時代すでに)メインである。(であるがゆえに陳腐でもある)
この文章は、岡崎京子批判というより、岡崎の読まれ方批判、つまり、お洒落でサブカルサブカルした読まれ方批判というなら、許されるように思う。
それにしても偏りすぎだと思うが。パッチワークで作った洋服は創作ではないという発言は詭弁でしかない。なぜそれが書かれる、または描かれるものに関してはまかり通るのか、不思議で仕方がない。
引用を質的に選別するのもまた無意味だ。